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女性にとっても仕事ってかなり大切な時代に入りだした!働き続ける覚悟・・大先輩女史に学ぶ!

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恋愛コラムライターのyukiです。 普段は会社員ですが、日常のちょっとしたことや女性ならではの視点を大切に、 自分の経験や女子会で得た恋バナの情報をまとめています。

 

 ✰ 受付嬢から日本生命「初の女性取締役」となられた山内千鶴さん

【1】原動力は 仕事がおもしろかった!

入社時の配属は大阪本店の受付担当で、当時は3年も勤めれば寿退社するのが一般的で、私もそうなるものだと思っていました。

ところが当時の先輩に、受付としての話し方や所作などを厳しく指導していただき、誇りを持って仕事をするようになり、仕事がどんどんおもしろくなりました。

 

【2】プロ意識を持って仕事をするという基本姿勢が身についた!

受付業務で大事なのは、来客される方の顔と名前を覚えることです。

当時、先輩から「今、通った方はどこの誰?」と抜き打ちテストをされるので、来社される方のお顔や服装の特徴をメモして必死で覚えました。

ホテルの喫茶店で働くスタッフは、常連のお客様がコーヒーを注文する際の、お砂糖やミルクの有無を常に頭に入れていると聞き、そのやり方を学びに行ったこともあります。

受付業務は評価がタイムリーに分かるので、喜んでいただけると益々工夫するようになる。

その繰り返しで、仕事の面白さとプロ意識を持って仕事をするという基本姿勢が身についたと思いますね。

人生100年時代、女性も働き続ける覚悟を持つことが重要です。

 ✰ 美しく活躍し続ける女優 草笛光子さん(85歳)

【3】言葉の力に敏感でいたい

女優は、肉体を使った表現者であると同時に、言葉の伝達者でもあると思っています。だから、言葉の力には、敏感でいたい。

舞台の台本を頂いた時に、その中にいい言葉がひとつあると、それだけで、この役をやってみようというスイッチが入るんです

いい言葉には、心を動かす力がある。だからそれを舞台でしゃべることが嬉しくてしかたなくなる。

【4】"種"が合う人とは、ずっと付き合っていける

女優という仕事は、多くの共演者やスタッフと関わる仕事でもある。人間関係は、やっぱり難しい。時には、波長の合わない人もいて、ぶつかることもあるという。

「『あの人、嫌い、この人、好き』って、口には出しません。いろんな方とお付き合いしなきゃならない仕事だから。

嫌だなと思ったら、どうするか。

私は、その人からうまく遠のくんです。合う、合わないっていうのは、お互いにどこか空気で分かるんでしょう。

逆にうまくいく人とは、多くを語らなくても本質的なところでわかり合える。わたしは、それを"種"が合うと言っています。

例えばその人がちょっと嫌なことを言ったり、腹が立つようなことがあっても、"種"が一緒だといつのまにかもとの関係に戻るんです。"種"が合わない人は、一旦壊れたらもうだめ。戻らない

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【5】老いとは“おっくう”ということ

健康のためにも、早寝早起きがいいことはわかっています。でも、私、夜が好きな女なんですね(笑)。

テレビを観ながらストレッチして、そのあと新聞を広げて読み始めると止まらなくなる。気がつくと、あっという間に午前三時。今読んでいる記事が、自分の役作りの肥やしになるかもしれないと思うと、ついつい……

若い頃は夜更かしなんて平気だったという草笛さん。だんだん思い通りにならなくなる体を前に「老い」とは何だろうと考えるようになったという。

私がたどりついた結論は、老いとは“おっくう”ということです。"おっくう"を感じる頻度が増えていくことが、老いること。だからおっくうがらずになんでもチャレンジすることが必要だと思うんです

 

【6】毎日が大切な一日。その日を精いっぱい生きたい。

人生何が起こるかわからない。明日死ぬかもしれないでしょう。そう思うと、毎日が大切な一日。

その日を精いっぱい生きられるように、いい生き方ができるように常に心がけています。そのためには、健康でなければならない。だから怪我したり、病気になったりしないよう、毎朝仏壇に座って、ご先祖様にお願いしているんです

 ✰ 実は遅咲きの女優 森光子さん(1920年 – 2012年)

   森光子さんとは

国民栄誉賞を女優として初めて受賞した森光子。その活躍の場は、テレビ・映画・舞台にと幅広く、代表作となった舞台「放浪記」は公演回数2017回という前人未踏の記録を打ち立てた。

「林芙美子とは外見は似てもいない森光子さんによって、その人間のたくましさを描く」と作者・菊田一夫が「放浪記」の台本に記したように、森さんの前半生は昭和という時代に翻弄されたものであった。

大正9年、京都に生まれ女手ひとつで育てられるも、母とは13歳で死別。

歌劇など華やかな世界への憧れから映画の世界に飛び込むも、戦争の激化により歌手へ。しかしすぐに太平洋戦争の開戦となり、昭和19年まで戦地での巡業が仕事となる。

戦後再び芸能活動を始めるも、生活苦や結核など数々の困難に見舞われる。しかし人生を諦めることなく芸能の道をひたすらに歩み続けた。

 ✰ 役者ひと筋に生きていく

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舞台、ドラマ、バラエティー番組に、ワイドショーの司会と、森さんにとって生きることは仕事をすることだった。その思いが芽生えたワケは、二度目の離婚にあった。

舞台『放浪記』が始まる2年前、39歳の時に森さんは大阪のテレビディレクターと再婚。当時の森さんは、まだ主演の経験もなく、脇役ばかりの女優だった。

しかし、41歳で『放浪記』の主演に抜擢。その成功で仕事に追われる日々になり、夫婦はすれ違い、女優と妻の両立も限界を迎えていた。生きるために女優への道を選んだ森さんにとって、ようやくつかんだ主演の座。

夫は森さんを思うが故、仕事を減らすようにすすめたが、亀裂は修復不可能となり、森さんは仕事を続けることを選んだ。

晩年、二度目の離婚を振り返った森さんは、自らを“結婚の落第生”と称し、「もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていく」ことを誓ったという。

私は、妻の座についていたかった。今でも岡本を愛しています。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないでください』と泣いて頼んだこともありました。

でも、結局、破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。

一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていくということ

1963年(昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演を務めあげたことで、森は仕事にのめり込み仕事最優先となる。この時の心境について「いつでもぎりぎり決着の逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました。俳優という退職金も失業保険もない職業のみじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない」と、当時のインタビューで答えている

 ✰ 謙虚な姿勢

森さんの熱演により大成功をおさめた『放浪記』。

初主演を終えた森さんは「これからまた主役をやらせて頂くような気持ちは持たずに、また元のように脇役に戻って地味になるべく長く、演技者として生きていきたいと思います」と謙虚な姿勢を見せている。

その背景にあるのは、この舞台に出会うまで、主演が巡ってくることはなく、脇役として活動してきたこと。

不遇の女優時代を森さんは「当時の気持ちを川柳みたいなもので言ったことがございます。『あいつより、うまいはずだが、なぜ売れぬ』。とても生意気だけでなく、不遜な女、少女だったと反省しております」と振り返っていた。

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【4】森さんの言葉

戦争を知る人は 幸せの根底にあるものは平和だと
もっと大きな声で言うべきだと思います

林芙美子という方は失敗しても
なにも後悔しませんでした 私も同じです

そのときが誠実で一生懸命だったら
それでいい あしたを生きましょう

最期に遺した言葉は、いかにも仕事に生きた森らしく「みなさん、一生懸命される仕事を生きてね」というものだった

まとめ

プロ意識を持って仕事をするという基本姿勢

人生100年時代、女性も働き続ける覚悟を持つことが重要

いい言葉には、心を動かす力がある

おっくう"を感じる頻度が増えていくことが、老いること。だからおっくうがらずになんでもチャレンジすることが必要

その日を精いっぱい生きられるように、いい生き方ができるように常に心がけています。そのためには、健康でなければならない。

失敗しても
なにも後悔しませんでした

そのときが誠実で一生懸命だったら
それでいい あしたを生きましょう

一生懸命される仕事を生きてね

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